2016年12月16日12:01
<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第三章vol.1【二俣二間譚】≫
カテゴリー │歴史が動いてヒストリ庵
※これはあまりにもフィクションです
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。
小夜の中山での運命ないし必然というのか、
あの出会いから120数余年が過ぎようとしていた頃。
世は藤原氏や橘氏が淘汰され源氏と平氏が跋扈し
公家主体から武家主体の時代へとその形相を変化し始めていた。
横地は幾多の困難を潜り抜け、4代目長重の時代になっていた。
もちろんそこには二俣の者もいたことだろう。
この1180年という時代は風雲急を告げる年である。
平家主権の政(まつりごと)に業を煮やした朝廷が平家討伐の命をだし
あの源頼朝が伊豆で父や先祖の仇も背負い挙兵した年なのである。
伊豆もしくは後に幕府を開く事になる拠点の鎌倉。
敵である平家に立ち向かうには、間に立つ駿河とエンシューが要であると考えた。
頼朝はこの二ヵ国に初めて守護を置いたのでる。
守護とは、その土地に居る武家をまとめる者で
その団結無くして平家討伐は無しと頼朝は考えていた。
ではエンシューの守護人とは誰か。
頼朝挙兵の時期に甲斐の国でも呼応して平家一党を薙ぎ払ったとされる
安田三郎義定という者がエンシューを監督する事となった。
彼は豪快であり小さきことは考えず正に武将の王道を行く者である。
あぁ思へば、八幡太郎に少し似ている所があるのかもしれない。
横地家は120年という歳月によって遠州一帯に名を轟かせ
都にもその名は知られており、言わばエンシューのご意見番と行った所になっていた。
その横地氏を安田三郎義定は大いに頼り、可愛がった。
さて、前の語りにて思惑を巡らせた相良という者は覚えているだろうか。
その後源氏への恨みつらみを増幅させつつ相良の地で大人しくしていたのだが
安田三郎義定が守護に着いた翌年、彼はエンシューの者を総動員して
この地を平家への橋頭保とするため砦や城柵を造りはじめた。
が、相良の一門はそれを断固拒否しせせら嗤った。
「平家が打倒されるはずもなし。源氏などおそるる者でなし。」
しかしながら、またもや相良の見立ては外れる事になる。
結局、相良一門は一連の問題行動がお咎めとなり九州の肥後へ流刑となってしまう。
ただし、相良という名門はココから始まると言っても過言ではない。
あの群雄割拠する九州の地で戦国の世を生き延び
江戸時代には藩を担う1大名として国替えされることもなく明治までかの地を守り抜いた。
思えば、800年以上の歴史を紡いだ。
これは、エンシューでの失敗を教訓にしての事だと思いたい。
とにもかくにも、統治という面で公家から武家、小規模から大規模へと変革していく時期であり
その思いと違いをめぐり、戦が増え始めていくのであるが、
この時はまだ平穏の中に二俣の地はあった。

※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。
小夜の中山での運命ないし必然というのか、
あの出会いから120数余年が過ぎようとしていた頃。
世は藤原氏や橘氏が淘汰され源氏と平氏が跋扈し
公家主体から武家主体の時代へとその形相を変化し始めていた。
横地は幾多の困難を潜り抜け、4代目長重の時代になっていた。
もちろんそこには二俣の者もいたことだろう。
この1180年という時代は風雲急を告げる年である。
平家主権の政(まつりごと)に業を煮やした朝廷が平家討伐の命をだし
あの源頼朝が伊豆で父や先祖の仇も背負い挙兵した年なのである。
伊豆もしくは後に幕府を開く事になる拠点の鎌倉。
敵である平家に立ち向かうには、間に立つ駿河とエンシューが要であると考えた。
頼朝はこの二ヵ国に初めて守護を置いたのでる。
守護とは、その土地に居る武家をまとめる者で
その団結無くして平家討伐は無しと頼朝は考えていた。
ではエンシューの守護人とは誰か。
頼朝挙兵の時期に甲斐の国でも呼応して平家一党を薙ぎ払ったとされる
安田三郎義定という者がエンシューを監督する事となった。
彼は豪快であり小さきことは考えず正に武将の王道を行く者である。
あぁ思へば、八幡太郎に少し似ている所があるのかもしれない。
横地家は120年という歳月によって遠州一帯に名を轟かせ
都にもその名は知られており、言わばエンシューのご意見番と行った所になっていた。
その横地氏を安田三郎義定は大いに頼り、可愛がった。
さて、前の語りにて思惑を巡らせた相良という者は覚えているだろうか。
その後源氏への恨みつらみを増幅させつつ相良の地で大人しくしていたのだが
安田三郎義定が守護に着いた翌年、彼はエンシューの者を総動員して
この地を平家への橋頭保とするため砦や城柵を造りはじめた。
が、相良の一門はそれを断固拒否しせせら嗤った。
「平家が打倒されるはずもなし。源氏などおそるる者でなし。」
しかしながら、またもや相良の見立ては外れる事になる。
結局、相良一門は一連の問題行動がお咎めとなり九州の肥後へ流刑となってしまう。
ただし、相良という名門はココから始まると言っても過言ではない。
あの群雄割拠する九州の地で戦国の世を生き延び
江戸時代には藩を担う1大名として国替えされることもなく明治までかの地を守り抜いた。
思えば、800年以上の歴史を紡いだ。
これは、エンシューでの失敗を教訓にしての事だと思いたい。
とにもかくにも、統治という面で公家から武家、小規模から大規模へと変革していく時期であり
その思いと違いをめぐり、戦が増え始めていくのであるが、
この時はまだ平穏の中に二俣の地はあった。
