<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第七章【今からシバいたる】vol.4

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「懸川(かけがわ)の城が奇襲、奪取されたよしにございます。」
二俣近江守昌長(ふたまたおうみのかみまさなが)は、やはり来たかと言う面持ちでぐっと唇をかみしめた。
「早馬を出せ!急ぎこの事、斯波様にお伝えせよ!」
にわかにこの杜山(やしろやま)の城が慌ただしくなってきた。
もしかしたら一番早くこの危機を察知したのは、この昌長(まさなが)だったかもしれない。
現に周りの豪族達はまだ何もしていない。
(やはりあの者達はきたか、しかし早すぎる。早すぎる侵攻だ。これが早雲殿の手腕と言うやつか。)
スルガの騒乱を一瞬のうちに平定してしまった北条早雲(ほうじょうそううん)と
その上に立つ今川氏親(いまがわうじちか)の手腕に感服すると同時に、このエンシューが瞬く間に今川色へと
塗り固められてしまう恐ろしさを昌長(まさなが)は感じた。
その危惧が現実となる様に、、、、
氏親(うじちか)は、反対勢力であった朝比奈 泰煕(あさひな やすひろ)に懸川城の更なる強固を下知し
空に浮いていた横地・と勝間田の失地回復を図ろうと、まだ若き松井山城守宗能(まついやましろのかみむねよし) 
を送り込んだ。
彼の家は、3代目の今川 範国(いまがわ のりくに)と行動を共にし忠節な家臣として今まで歴史を紡いだ古参の武家である。
誠実で人当たりの良い宗能(むねよし)にエンシュー平定の足掛かりを担ってもらおうというのだ。
そしてこの宗能(むねよし)の孫が二俣城主になるのだが、それはもう少し後の話。
とにかく、奪取した懸川を確固たるものとし、そこから従う者は厚遇し従わぬ者は打ち滅ぼすと言う氏親(うじちか)の
徹底した基盤のもとに、粛々とエンシュー東側は今川色に塗り固められていった。
着々と民衆や豪族を掌握していく今川に対し、昌長(まさなが)は諸豪に書状を出すぐらいしか策を講じるこが出来なかった。
その頃昌長(まさなが)の書状を受け取った斯波 義寛(しば よしひろ)であるが、さすがに危機を感じエンシューへの出兵を
準備した。矢先、美濃(みの:現岐阜)の争いに巻き込まれ身動きが取れなくなってしまった。
情勢が安定したころを見計らい、信濃守護(しなのしゅご:現長野)の小笠原貞朝(おがさわら さだとも)に共闘を打診し
氏親(うじちか)討伐へ乗り出す準備が整ったのだが、、、今川勢が懸川を奪取してから4年余りが過ぎていた。
全くの後手を踏んでしまったこの状況に
天竜川を挟んでスルガ側は今川派、ミカワ側が斯波派と言ったようにほぼエンシューを二分してしまった。
そしてそれは誰の目からも見ても今川方が有利な事は明白だった。
しかし、今川勢も怒涛の如く侵攻を始める事はできなかったのだ。
エンシュー侵攻と同時期、北条早雲(ほうじょうそううん)が伊豆を奪取し関東進出へも乗り出していた。
小田原城を奪取した時点で、関東の猛攻に合いそちらに意を注がなければならなかった。
ただそういう事も想定内といった風で氏親(うじちか)と早雲(そううん)は着々と事を進めていった。
そして懸川を奪取した時から5年ほど過ぎた頃、斯波と今川、それを取り巻く諸将達がエンシューの上に立った。
先方は、二俣近江守昌長(ふたまたおうみのかみまさなが)。

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