<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第七章【今からシバいたる】vol.5

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二俣近江守昌長(ふたまたおうみのかみまさなが)は杜山(やしろやま)の城に陣をしいていた。
彼の本拠はそこから北にほどなくいった二俣である。
通常であれば本拠の笹岡城(ささおかじょう)に陣をしくのが定石ではあるが、昌長(まさなが)はあえて
敵の矛先に陣を敷いた。
それは一心に、先人達も含め、民と皆でこの二俣をここまで耕してきた自負があるからこそ
みすみす敵の手に取られまいと強く考えたからである。
そして斯波氏は信濃の小笠原氏に援軍を求めた。
さすれば二俣は遠州と信濃の橋渡しな役割を担うこととなり、ここを奪取されることは敗北に近い。
その事を重々感じていた昌長(まさなが)は、斯波 義寛(しば よしひろ)の弟である
斯波 義雄(しば よしかつ) に笹岡城(ささおかじょう)へはいってもらうよう促した。 
斯波 義雄(しば よしかつ)は兄義寛(よしひろ)の命で派遣された、いわばこの戦いの総代である。
昌長(まさなが)は二俣が最終の防衛線だと考えていた。
自らの命が果てようとも今川勢を食い止める気概ではあったが、 彼は2つの懸念材料を抱えている。
1つは、現状、掛川城より東は今川方、西が反今川方と言う図式になっているのだが、あくまでそれは図式の中だけの話。
実際反今川方内において、口では何とも言っているが天竜川を挟んで西側の者達は対岸の火事と見ていた。
逆に今川方は4年の歳月をかけて絆を深め確固たる今川勢を形成している。
昌長(まさなが)はほぼ孤立した形で杜山(やしろやま)に起っていたのである。
それでも、彼を慕う者や、今川によって主君を失った牢人(浪人)をかき集め、それなりに形成はしていた。
だからこそ総代の斯波 義雄(しば よしかつ)には笹岡城(ささおかじょう)にはいってもらい、杜山(やしろやま)で
食い止めている間に、西側の諸侯を奮起させ後詰めから一気に雪崩れ込むか、はたまた濱松(はままつ)より出でて
挟み撃ちにするか、そういうことを昌長(まさなが)は考えていたのだが、、、
「おい!近江守!なぜ私があのようなみすぼらしい城に籠らねばならぬか!」
斯波 義雄(しば よしかつ)は杜山(やしろやま)に来ていた。
彼には兄義寛(よしひろ)に連れ立って連戦をしてきたという確固たる戦の猛者と言う自覚がある。 
どこぞの馬とも知れぬ田舎の豪族に指示されては叶わぬという思いがあったのかもしれない。
それは、上の者が下知をして諸侯が何もわからず追随し遠征に赴くという事が当たり前の時代当然のことかもしれない。
ただ、それ以前に斯波 義雄(しば よしかつ)は別の事で腹を立てていた。
それがもう一つの要因、笹岡城(ささおかじょう)である。
二俣の奥まった所に位置し、この300有余年さしたる戦も行われていないこの地の城。
戦の為の武具などは保管されているものの手入れ悪く錆び切っており、家畜や農作物などが大半を占め
どちらかと言えば農具の方が手入れが行き届いている。
軍事拠点と言う意味合いではなく、保管庫という意味合いが強い笹岡城(ささおかじょう)に
斯波 義雄(しば よしかつ)は憤慨した。
尾張(おわり:現愛知)や美濃(みの:現岐阜)で歴戦した彼とこの地では、全く時間軸が違って見えた。
「ここが戦の最前線なのか!?どうなっているのだこの地は!」
二俣近江守昌長(ふたまたおうみのかみまさなが)の懸念は悪い方に転がってしまった。



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