<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第五章vol.13【エンシュート!スルガ】

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さて水島の事変以降、今川勢は混乱を極める結果となった。
さらに九州三人衆の協力を得られず離反した事を知った菊池勢は息を吹き返していく。 
抑え込まれていた九州各地の南朝勢もまた声を張り上げ、今川勢の排除を今が好機と立ち上がった。
どんなものにも風というものがある。
了俊はまず攻勢に出ていた足を止め、地盤固めに努めると共に援軍を要請する。
九州内では今や援軍を頼める者はおらず、先の九州入りで協力を得た周防や長門と守護する
大内家に再び援軍のお願いをした。
大内家はあの聖徳太子が居た頃から存続している家であり、朝鮮百済王の末裔だとか。
とにかくとてもとても永く続くいにしえの家である。
ただ当初は九州の現状を見るにあたり大内家は援軍を渋っていた。が、嫡男の大内義弘という者が援軍にはせ参じた。
この青年、武芸に秀でると共に文学にも精通する優秀な人物であり了俊にとても心酔している様子である。
了俊の行動をよく見、語る事を素直に吸収した。
それもあってか、大内家は豊前の国の守護にも任ぜられこの地域の権力は随一となっていた。
この二人の関係が今後訪れる大きな波に多大なる影響を及ぼす事になるのだが、それはまだ先のお話。
目下、今川・大内連合軍は、勢いを増す南朝方と菊池勢の対応をしなければ両家の明日は無い。
今川勢に関しては、退路は立たれていないものの南朝に周りを囲まれた状態になり最小限の損害で食い止めては
攻勢に出る機会を伺うという具合であった。
最小限にとはいったものの、遠州出の有力武将たちが次々と討ち取られていく状況。
井伊、奥平、勝間田。。。
皆それぞれなにかしらの犠牲の上に両足を踏みしめている。
了俊はそれでもこの状況を耐え抜かねばならぬという思い一筋で、皆を奮い立たせ戦場に送り込み続ける。
「まさしく鬼の如く」
今川家直属家臣ではない外様の者からそんな言葉を聞く事も少なくはなかった。
ただそうは言っても、故郷の命運は了俊が握っているのであり今更どうこうもできないのであるが。
皆知らぬ地での戦が疲弊を、より一層増大させていた。
そして、水島の変から2年。ついに両軍主力が肥前蜷打(びぜんになうち)にて対峙する。
当初、菊池勢と南朝方が有利と思われていたが援軍である大内家の勢いがすさまじく今川大内連合が大勝をおさめたのである。
今川単独であればこの戦の結果はまた違うベクトルを進んだのかもしれないが、血気盛んな大内義弘の
性格そのままを体現したような大内軍に南朝側は成す術もなかった。
この大敗により南朝側の求心力は徐徐に失われて行く。
島津家も今川の対抗馬に躍り出て今川の排除を試みるが睨み合いが続き、そうそう上手くはいかない。
どちらも決定打を出せない押し問答の歳月を経ていくうちに15年の歳月が過ぎる。
15年の悲喜交交のうち九州だけではなく全国の南朝勢力が淘汰されていった。
南朝は朝廷としての機能をほぼ失い存続も危ぶむ形まで小さくなり、北朝主導のもと、
というより北朝が押し付ける形で南朝合一を成す。
50年にも及ぶ南朝と北朝の争いは終止符がうたれたわけだが、その煽りを受けて九州でも
抵抗を続けていた懐良親王も降伏をする。こうして九州の平定は一応の終わりを迎える。
今までは地盤作りである。
今川了俊、九州探題の力量と言うものが今これから試されるのであり
いわばスタートラインに立ったにすぎないのである。
九州探題の任を命ぜられてから20数余年が過ぎた。
東奔西走し、心を摺削りながら走り抜けてきた。
そのせいもあり右手は痙攣をおこし、今は使い物にならない。
それでも了俊は清々しく前を見た。

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