2017年09月15日11:35
<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第五章vol.7【エンシュート!スルガ】≫
カテゴリー │歴史が動いてヒストリ庵
対峙した今川勢と菊池勢。
さらに言うならば、北朝と南朝の最後の戦いとも言うべき対峙。
皆、両軍入り乱れての総力戦を覚悟していたが異なる展開を見せる。
どちらの軍も半年以上の間その地に留まり睨み合いを続けた。
菊池勢は先の大宰府での戦闘で、今川勢の勢いを知り先に手を出せば負けると判断した。
今川勢もまた、戦力を削いだとはいえまだまだ死に体では無い菊池勢と地の利があちらに
あることを加味し、先に手を出せば負けると判断した。
両陣営相手を強敵と認めた結果である。
それでもその間何もしていなかったわけではない。
菊池勢は九州北部のまだ寝返っていない味方と呼応し補給路を断たんためゲリラ戦を仕掛けた。
一方の今川勢もまた肥後からの補給を断たんと躍起になっていた。
今川了俊と菊池武光、二人が打ち出す戦略は同じものであった。
冷静沈着に見られがちの今川了俊と猪突猛進に見られがちの菊池武光、
結局の所心の真は同じなのである。ゆえに動けなかったということもあろうが。
この膠着状態の戦況がいつまで続くのかと思われた時、事件は起こった。
ゲリラ戦の陣頭指揮をとっていた菊池武光が相手の弓矢を受け重傷をおってしまったのだ。
「大事ない。皆励め。」
そう言葉を残し前線から退き療養を重ねる他なくなってしまった。
菊池勢は大将に深手を負わせてしまったという口惜しさから、菊池武光がいなくなった後も
懸命に今川勢を封じ込めた。
「傷が治りし菊池様が必ずこの戦況を打破してくださる。」
そう願いを込めて。
しかし非情にも彼はその傷がもとで病にたおれてしまったのだ。
高熱を発し体の所々が硬直し痙攣し生き悶えた。
彼の身に死が迫る頃には顔などがこけ勇猛果敢な武将のイメージとは遠くかけ離れていたが
目だけは真っ直ぐそれを見すえ精気が失われる事は無かったという。
そして菊池肥後守武光は享年51歳この世をさる。
思えば、菊池武光は悪役ではない。
ただただ南朝側につき、悠久南朝の時代を夢見てその信念のもと彼の正義に基づ他だけの事である。
地方での南朝勢力の拡大こそが後醍醐天皇の悲願であったに違いないが
哀しいかな、それを成し遂げたのはこの九州の地だけである。
その立役者が菊池武光であり、この後来る南北朝統一の礎になった事は言うまでもない。
そうは言っても張った糸はどこかが切れればバランスを崩す。
菊池の家督は嫡男の武政が継ぐことになったが、彼はこの時30代前半。
了俊とは比べ物にならないくらい経験が浅い。
今川仲秋が九州入りした時に迎撃に出ているが返り討ちにされている。
今川勢の方が何枚も上手である。
南朝は、菊池武光という大きな大きな旗印を失い有明海に漂う難破船の様に思われたが、、、

さらに言うならば、北朝と南朝の最後の戦いとも言うべき対峙。
皆、両軍入り乱れての総力戦を覚悟していたが異なる展開を見せる。
どちらの軍も半年以上の間その地に留まり睨み合いを続けた。
菊池勢は先の大宰府での戦闘で、今川勢の勢いを知り先に手を出せば負けると判断した。
今川勢もまた、戦力を削いだとはいえまだまだ死に体では無い菊池勢と地の利があちらに
あることを加味し、先に手を出せば負けると判断した。
両陣営相手を強敵と認めた結果である。
それでもその間何もしていなかったわけではない。
菊池勢は九州北部のまだ寝返っていない味方と呼応し補給路を断たんためゲリラ戦を仕掛けた。
一方の今川勢もまた肥後からの補給を断たんと躍起になっていた。
今川了俊と菊池武光、二人が打ち出す戦略は同じものであった。
冷静沈着に見られがちの今川了俊と猪突猛進に見られがちの菊池武光、
結局の所心の真は同じなのである。ゆえに動けなかったということもあろうが。
この膠着状態の戦況がいつまで続くのかと思われた時、事件は起こった。
ゲリラ戦の陣頭指揮をとっていた菊池武光が相手の弓矢を受け重傷をおってしまったのだ。
「大事ない。皆励め。」
そう言葉を残し前線から退き療養を重ねる他なくなってしまった。
菊池勢は大将に深手を負わせてしまったという口惜しさから、菊池武光がいなくなった後も
懸命に今川勢を封じ込めた。
「傷が治りし菊池様が必ずこの戦況を打破してくださる。」
そう願いを込めて。
しかし非情にも彼はその傷がもとで病にたおれてしまったのだ。
高熱を発し体の所々が硬直し痙攣し生き悶えた。
彼の身に死が迫る頃には顔などがこけ勇猛果敢な武将のイメージとは遠くかけ離れていたが
目だけは真っ直ぐそれを見すえ精気が失われる事は無かったという。
そして菊池肥後守武光は享年51歳この世をさる。
思えば、菊池武光は悪役ではない。
ただただ南朝側につき、悠久南朝の時代を夢見てその信念のもと彼の正義に基づ他だけの事である。
地方での南朝勢力の拡大こそが後醍醐天皇の悲願であったに違いないが
哀しいかな、それを成し遂げたのはこの九州の地だけである。
その立役者が菊池武光であり、この後来る南北朝統一の礎になった事は言うまでもない。
そうは言っても張った糸はどこかが切れればバランスを崩す。
菊池の家督は嫡男の武政が継ぐことになったが、彼はこの時30代前半。
了俊とは比べ物にならないくらい経験が浅い。
今川仲秋が九州入りした時に迎撃に出ているが返り討ちにされている。
今川勢の方が何枚も上手である。
南朝は、菊池武光という大きな大きな旗印を失い有明海に漂う難破船の様に思われたが、、、
