<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第四章vol.7【東西南ボクイイね!】

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※これはあまりにもフィクションです   
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。 
高師泰・高師冬、その者達を「こうのもろやす」「こうのもろふゆ」とそれぞれ言う。
高氏(こうし)というのは古くからの家であるが、この時代、尊氏の側に有り軍事におけるほぼ全てを担っていた。
彼ら一族はこの南北分裂のおり新田義貞や楠木正成といった南朝歴戦の猛者に幾度となく痛い目にあわされてきた。
されどその度に立ち上がり、一度ありても二度は無しと目の前の敵をねじ伏せここまで這い上がってきた。
気づけば彼ら、足利勢力一の精鋭部隊となっていたのだ。
その精鋭が関東鎮圧から転身しこの井伊の谷へ攻めに来たという事。
無論、宗良親王がここにいるからに他ならないが裏を返せば北朝側は宗良親王の存在を重要視していた事となる。
この時今川は軍を帯同してはいない。さらにこの年は守護職が他の者に移っている。
噂によれば、「駿河・エンシューの事は今川が」そう誇示して、高師泰らに目をつけられその事が仇となり守護職
を下ろされたのではないかという話だ。  
ただ今川の軍がいなくとも北朝の大軍は浜名湖から進軍を始めた。
時は1839年梅雨空が心を覆うがごとくどんよりとした6月の事である。
エンシューの地に降り立った高師泰は兄の子である高師冬に話しかけた。
「まったくもって、むさ苦しい。この気候どうにかならんものかの。」
ジワジワと湧き出る汗を拭い、めんどくさそうに馬をすすめる。
「梅雨入り故仕方ありません叔父上、南朝の者達などおそるるに足りません、早くかたずけて関東に帰りましょう。」
「気乗りがせんの。」
この二人、この時代がそうさせたかは分からないが粗暴な所が少し目立つ。
彼らの軍は、南朝に属する箇所ことごとく田植え前の田畑を荒らし村々を荒らしながら進軍していった。
まず向かうは鴨江城。
浜名湖より一番近い南朝方がこもる城である。
宗良親王が三嶽城にいる事を事前に知っていた彼らではあるが、先に三嶽を攻めて南からの挟み撃ちというのは
避けたい所ではあるので、定石どおり鴨江をまず攻略し三嶽攻略の後詰と考えたのである。
鴨江城の遺構は現在残っていない。
それだけ高師泰・高師冬の軍が全てを薙ぎ払ったのであろうか。
ともかく鴨江城はすぐ落ちた。
「ははははは、たわいもない。」
師泰の高笑いが三嶽に届くかのようであった。
その頃、宗良親王と井伊道直が籠る三嶽にその報がもたらされた。
「くっ、奴らは浜名湖から来たと、、、、当てが外れたか。それにすでに鴨江が落ちるとは、、、早い。」
苦虫を噛んだ顔で道直は爪を噛んだ。
「どうする井伊介。我はあの者達と対峙し打ち負かしても構わぬぞ。」
宗良親王が天皇の子であっても幾度も戦場に立たれた武の者であり肝は据わっている。
「いえ、まだ戦は始まったばかりでございます。私は改修した大平城で奴らを待ち見事追い払ってみせます。」
「うむ、戦略はそちに任せる。頼む。」
直道はここが正念場だと、急ぎ大平に迎い北朝勢の目をこちらに向けさせる工作をした。
鴨江の大勝で波に乗っている高師泰達はまんまとそれに喰いついた。
「井伊のこわっぱなど、とるに足らぬわ。」
そいう言って大平城攻略に乗り出したのである。
直道も馬鹿ではない。用意周到彼らを駆逐せんと万全に待ち構えていたのであった。

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