<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第四章vol.5【東西南ボクイイね!】

カテゴリー │歴史が動いてヒストリ庵

※これはあまりにもフィクションです   
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。 
このエンシュー、鎌倉が政(まつりごと)の中心になってからというもの都との間で常に要所とされてきた。
ある時は敵から守るための橋頭保に、ある時は健全な流れを作る橋渡しな役割へ。
さて事、今回はいかがなものであろう。
エンシュー内で敵味方乱立する中、
天竜川より西は井伊氏が南朝派、天竜川より東は横地氏が北朝派とその2つの大きなうねりになり、
周りの諸家が付かず離れずの状態でいた。
どんよりと睨み合った流れはいつしか後醍醐天皇と足利尊氏との代理戦争のような形相を呈していく。
では、後醍醐天皇と足利尊氏の意志を継ぎ井伊氏や横地氏をブレーンとして陰で采配を振っていたのは誰なのか。
南朝側は宗良親王であり、北朝側は足利庶家で信頼が熱く遠江守護に任命された初代当主今川範国であった。  
実は宗良親王、前に一度井伊谷に来ている。
井伊谷を拠点に中央での発言力を高め南朝の勢力を拡大しようと目論んだ後醍醐天皇。
その実現に宗良親王は井伊谷へ派遣されたのだが、今川範国の手によって野望はことごとく打ち砕かれていった。
それでも南朝側の陣営は踏ん張り微妙な均衡を保っていた。
宗良親王が白羽の地に漂着した同年1月にも南朝側が攻勢に出ていた。
井伊氏は既にこの頃最重要拠点として急先鋒の立ち位置である。
宗良親王一行が関東の武士を集結させ、エンシューにいる井伊と連携し鎌倉を挟み撃ちにしようというのである。
ゆえに、宗良親王が関東に向かうというのは事前に耳に入っていた。
この頃の井伊家の当主は井伊行直という者、あの直虎から数えて9代前のお話である。
「お館様!お館様!天野殿の目論み今川に悟られ、家内は分裂し北朝派は秋葉の山に籠ったとの事、
天野殿は攻勢に出んと要所の二俣の地を攻略する由にございます。」
「なっ、何?なんだと!?大攻勢の前である故、争いは自重せよとあれだけ言うたのに、そんなにも天野殿は抜き差しならぬか。」
「で、敵の動向はどうなのだ?」
「はっ、物見の話ですと横地と勝間田の軍勢が二俣に入ったと、、、」
「うぬぬ、すまぬが大攻勢が迫っておる故わしらは兵を出せん。自らの手で活路を見出してほしいと天野殿にお伝えしてくれ。」
「承知」
小さな小さな戦いは、横地勢に属する浅羽の内田孫八郎致景という者の活躍で幕を閉じる。
だが、その小さなほころびがやがて大きな穴となってこの地を飲み込んでしまう一端になろうとは。
結局天野氏は今川に下り井伊谷の東は敵の支配下に置かれた。
この事で、井伊家は大平城の改修に奔走しなくてはいけなくなった。
そんな折、あの一行が必死の思いで井伊谷にたどり着くのである。
「お館様!お館様!この井伊谷に10数名からなる山伏が訪れています。その者の話では宗良親王のご一行との由にございます。」
「なっ、何?なんだと!?誰の一行だと?なぜ宗良親王様が?」
「事の真相はわかりませぬが、皆様ひどくお疲れのご様子でございます。」
井伊行直は酷く狼狽した様子であった。
それもそのはず、来たるべき大攻勢に思いを馳せ準備してきたのだが  
采配を振る張本人である宗良親王が今ここにいる。
まったくもって理解不能の所業であるのは確かである。
行直は一行に会い宗良親王であると認めると共に、今までのいきさつを聞く事が出来た。
それを聞いた行直であったが、口が開いたまま閉じる事が出来なかった。

<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第四章vol.5【東西南ボクイイね!】


同じカテゴリー(歴史が動いてヒストリ庵)の記事
井伊家系譜
井伊家系譜(2019-11-15 15:40)


 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第四章vol.5【東西南ボクイイね!】
    コメント(0)