<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第四章vol.2【東西南ボクイイね!】

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※これはあまりにもフィクションです
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。 
後醍醐天皇は高揚していた。
自らの下命にて憎き鎌倉と六波羅を壊滅に追いやったのだから。
まず楠木正成や足利高氏が六波羅を掌握し新田義貞が鎌倉を壊滅させた。
これで流刑とされていたが、悠々と再び天皇の座に就く事が出来た。
何度も言うように彼は武家政権を廃止し平安初期の王道楽土を目指していた。
将軍などと言う「武」の長は勿論の事、「守護」などという武家から出た役職等いっさいがっさいを
認めはしなかった、正確には認めたくはなかった。
故に鎌倉幕府が成立してから滅亡する150年ほどを無い事にしたのだ。
土地の利権やら法律など鎌倉と付くもの全てを無に。
そして、全ての下命は天皇からという信念に基づき、全ての書類に目を通し許可、否かを自分自身で
判断するようにした。嗚呼、有言実行の人、鏡である。上に立つ者の鏡である。
が、無茶と無謀が合わされば無茶苦茶になるであろうし、車は急には止まれない。
「さぁ今から原子に戻り天子の命にて動くがよい。」と突然言われても皆の口は開いたままである。
それでも天皇の命は絶対。
当初はその通り政策を進めていくが、そんなもの立ち行かなくなるのは目に見えており
段々と今までの鎌倉式政策を色を変え行う事に移行してゆく。
さらに実質鎌倉幕府を倒したのは、言わずもがな彼の嫌いな武士の集団である。
この者達にソッポないし反旗をひるがされたらたまったものではない。
後醍醐天皇は泣く泣く将軍職並びに守護と言う役職を残した。
そのかわり守護に権限を吸い取られようとしていた
天皇(朝廷)から発布される役職、国司(守(かみ)介(すけ)等)の復権を試み守護の対抗にしようとした。
150年以上前の政策に戻れという政策。
それによる仕事過多。
武士への軽視。
全てが全て混乱を誘うかのように。
そんな状況化で支持を高めていった男がいる。
いや、それ以前からこの期を読んでいたかのように水面下で集団を作り上げた男。それが足利高氏。
奇しくも対立する事になる後醍醐天皇から「尊」をもらい足利尊氏と名を改めた男。
彼は軽視される武士集団の不満の拠り所となり、いつしかそれらの者たちの代弁者になっていた。
それが反後醍醐天皇という集団を作り上げ、離反する形となる。
「武士が英雄になろうなどと良い事などひとつもない。」
そう考えた後醍醐天皇は、足利尊氏の討伐を命じる。
しかしながら尊氏配下の武士達は幾多の戦場を渡り歩いた猛者ばかり、虎の子の楠木正成は討ち取られ新田義貞は
命からがら逃げ伸びる始末で彼らは再び返り討ちにあったのだった。
尊氏は後醍醐天皇から三種の神器を奪いとり、別の天皇を擁立し幕府の再建に乗り出した。
これでいつもと変わらぬ波の行き来があるだけに思われた。
しかし、この世には天変地異というモノがある。
後醍醐天皇という者はそれぐらいのしぶとさがあるのだ。
「尊氏に渡した三種の神器はニセモノである、だから朕がいまだに天皇なのだ。」
そう主張し、都の南である吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)でもう一つの都を打ち立てたのである。
京都の都、奈良の都、相反する二つの都。
この前代未聞の状況に下々の者たちはどちらにつくかを迫られた。
南北朝時代の幕開けである。

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