<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第三章vol.6【二俣二間譚】

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※これはあまりにもフィクションです
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。
さてさて、多くの人は日本では延々昔から領地争いをしていたとお思いであろう。
が、少し違う。
日の本という国が出来てから、エンシューや駿河、三河といった地域名が度々顔を出す。
これは区分であり領地ということではない、もともとは。
国を統べるためには財が必要である。
財とはこの日の本では米(コメ)が主である。
今と同じ貨幣というものは昔から存在したが定着するのはもっと後の話だ。
国をでっかくするためには、財が必要であり、その財である米を皆に作ってもらわねばならない。
国から土地貸してやるから開墾せよと言うのである。
そういった教育や管理を国府が担っていたわけだが、成果は芳しくなかった。
そこで考え出されたのが「墾田永年私財法」の発布であるが
簡単にいってしまうと、その土地を一生自分の物にしていいから、頼む、開墾してくれというもの。
もちろんそこから国はちょいと徴収(後に年貢になっていく)するのだが、それでも魅力的なお話。
その魅力的なお話に飛びついたのは、民、、、ではなく、神社仏閣、公家あたりの富豪な皆さんだった。
彼らは無作為に色々な土地を開墾しては私有地にしていった。
”荘園”と呼ばれたその土地は、例えばエンシューの土地が熊野所有の土地だったり、その隣が伊勢所有の土地だったり。
そんなこんなで、ここは私の土地だ。なんやかんやといざこざが絶えない。
そこで出てくるのが武士である。自分達の土地を守るため護衛団を組織し始める。
由緒正しく任命された武家の出やら、その土地の豪族まで色々といきさつがあるが、武士が土地を守るようになっていった。
そして鎌倉の時代が来るのである。
頼朝の出現で公家から武家、国から幕府へ政(まつりごと)が移行していき、守護という役職が出来たことも相まって
報酬も物品や役職から土地(領地)へと移行する事となる。皆も一度は耳にしたことのある御恩と奉公がそれである。
無論これまでに武士の中にも”荘園”の土地を持っていたものはいるが限られた身分の者だけであり、
武士の領地化が如実に表れていくのは鎌倉幕府が開かれてからであろう。
そんな状況の中で二俣の地も、大きな横地氏という武家の力を借りながら二俣氏とその民は
自分達の土地を守りながら日々日々を過ごしてた。
そして、その土地に想いを馳せて訪れたのが小山七郎朝光なのである。
安田氏から横地氏、横地氏から二俣氏に「鎌倉様からの覚えめでたき権威のお方ゆえ粗相のない様に」
と事前に通達があり、民も少しばかり浮足立っていた。
「鎌倉のお偉いさんがこんな山ん奥に何し来るずら。」
「こんならんごかない所きても、何もないに。」
「おんし、それよりも顔に泥がかあばってるで、それでお偉いさに会うだか。」
「おっ、あれや。」
ははははははははははっ。
この民は苦しくても笑顔を絶やさない。
権威のお方と言われてもピンとこず、いつもと変わらない接し方をするであろう彼らの良き所、悪き所の両面である。
その頃、小山七郎朝光は数人のお供と天龍川のほとりで背伸びをしていた。
「んぁー、いやぁ気持ちがいい。これが噂に名高い暴れ天龍ですか。聞きしにまさる雄雄しい川ですね。
さぁこの山を越えれば、二俣の地と聞きます。参りましょう。」
狩猟烏帽子をかぶり、二俣の鹿皮で作られた行縢(足全体を覆う当て革)を身にまとい
意気揚々と向かっていた。
※遠州弁と甲州弁が混在している事は、初代守護安田義定が甲斐国(現山梨)の出だったからでは
ないかと著者は推測する。上司→したう部下→言葉定着で地域に広まる。

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