2016年11月25日11:33
<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第二章vol.10【二岐二俣また明日】≫
カテゴリー │歴史が動いてヒストリ庵
※これはあまりにもフィクションです
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。
父である源義家に生まれてくる子供を認めてもらうため、五郎太夫の娘は弾正の家に居候する事となった。
幸いにも故里であるので、水や草、風に至るも娘の心を穏やかにした。
そしてほどなく、子が生まれた。
娘と五郎太夫共に男か女どちらでも構わず元気に生まれてくればよいと思っていたが
玉のような男の子が生まれた。
弾正は早速娘にお願いをする。
「それではそなた、その子を捨ててきてくれ。」
娘ははっと驚いたが、彼が話すにはこうだ。
まず義家様のお言いつけは守らなければならない。
ただその後の事は何もご意向がないので、弾正が旅の途中でその子を見つけたことにする。
その時頂いた短刀をそばに置く事で高貴なお方の子だと思い、彼はその子を引き取り育てる手筈だという。
こういう事は、偽りがあっては成熟せず実あるのだから真実味が出るのだと彼は言った。
翌朝、娘は弾正の言いつけに沿って通りに面したクヌギの下に赤子を置いてきた。
もちろんあの時頂いた短刀を抱かせて。
先に戻った娘からほどなくして、弾正が赤子を抱いて戻ってきた。
「旅の戻る途中、赤子が捨てられているのを見たのだが同じき所に短刀があった。そこに紋が施してあり
見れば笹竜胆(ささりんどう)。これは確か源氏の方の物じゃ。この子は高貴な方の子かもしれぬ。
娘子よこれよりそなたがこの子の世話をせよ。」
「かしこまりました。して名は何といたしましょう?」
「うむ、道に捨てられておったでのぉ。棄(すて)と名付けようぞ。」
こうして三人の奇妙な生活が幕を開けた。
余談ではあるが、これによく似た話が後世にもある。
あの豊臣秀吉の子、鶴松についてである。
なかなか子が出来なかった秀吉に待望の子が生まれたのだが、一度子を捨てに行かせて拾ってきて
「棄」と名付けている。通称八幡太郎と言うのにも何か引っかかる物がありそうである。
実は秀吉は、織田信長に仕える前今川義元に仕えていた時期がある。
その時の恩師であり、武芸学問に優れた松下 之綱(まつしたゆきつな)という者にこの話を
聞いていたかもしれない空想が膨らむ。
ちなみに鶴松であるが幼少期に病でなくなっている。
あの徳川家康と天下分け目の戦いをした秀頼は次男なのである。
話を戻して
こちらの棄は鶴松と異なりすくすくと成長した。
弾正が、しきたりや礼儀、学問武芸にいたるまで彼の持てるすべてを教えた。
娘は棄のお世話係として側にいたが母と名乗ることは許されなかった。
この大いなる嘘にほころびが生まれてしまうということでの苦渋の決断である。
しかし娘にとっては息子を死に至らしめる事より遥かにましな事であり、
一度も苦悩をこぼさず、側で棄の成長を見守っていったのだ。
「おぬしは高貴な方の息子である。それ相応の振る舞いと民の心を聞きなさい。」
弾正が何度も何度も説いていた言葉である。
娘の献身的で素直な所が似たのか、弾正の言葉が届いたのか、はたまたその両方か、
棄はその通りに育って行った。
そうして棄が10歳になる頃、、、
見附にいた五郎太夫から、義家様が小夜の中山にて駐屯中と連絡があった。
弾正はこれが期と、捨てを連れて義家に会う決断をした。

※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。
父である源義家に生まれてくる子供を認めてもらうため、五郎太夫の娘は弾正の家に居候する事となった。
幸いにも故里であるので、水や草、風に至るも娘の心を穏やかにした。
そしてほどなく、子が生まれた。
娘と五郎太夫共に男か女どちらでも構わず元気に生まれてくればよいと思っていたが
玉のような男の子が生まれた。
弾正は早速娘にお願いをする。
「それではそなた、その子を捨ててきてくれ。」
娘ははっと驚いたが、彼が話すにはこうだ。
まず義家様のお言いつけは守らなければならない。
ただその後の事は何もご意向がないので、弾正が旅の途中でその子を見つけたことにする。
その時頂いた短刀をそばに置く事で高貴なお方の子だと思い、彼はその子を引き取り育てる手筈だという。
こういう事は、偽りがあっては成熟せず実あるのだから真実味が出るのだと彼は言った。
翌朝、娘は弾正の言いつけに沿って通りに面したクヌギの下に赤子を置いてきた。
もちろんあの時頂いた短刀を抱かせて。
先に戻った娘からほどなくして、弾正が赤子を抱いて戻ってきた。
「旅の戻る途中、赤子が捨てられているのを見たのだが同じき所に短刀があった。そこに紋が施してあり
見れば笹竜胆(ささりんどう)。これは確か源氏の方の物じゃ。この子は高貴な方の子かもしれぬ。
娘子よこれよりそなたがこの子の世話をせよ。」
「かしこまりました。して名は何といたしましょう?」
「うむ、道に捨てられておったでのぉ。棄(すて)と名付けようぞ。」
こうして三人の奇妙な生活が幕を開けた。
余談ではあるが、これによく似た話が後世にもある。
あの豊臣秀吉の子、鶴松についてである。
なかなか子が出来なかった秀吉に待望の子が生まれたのだが、一度子を捨てに行かせて拾ってきて
「棄」と名付けている。通称八幡太郎と言うのにも何か引っかかる物がありそうである。
実は秀吉は、織田信長に仕える前今川義元に仕えていた時期がある。
その時の恩師であり、武芸学問に優れた松下 之綱(まつしたゆきつな)という者にこの話を
聞いていたかもしれない空想が膨らむ。
ちなみに鶴松であるが幼少期に病でなくなっている。
あの徳川家康と天下分け目の戦いをした秀頼は次男なのである。
話を戻して
こちらの棄は鶴松と異なりすくすくと成長した。
弾正が、しきたりや礼儀、学問武芸にいたるまで彼の持てるすべてを教えた。
娘は棄のお世話係として側にいたが母と名乗ることは許されなかった。
この大いなる嘘にほころびが生まれてしまうということでの苦渋の決断である。
しかし娘にとっては息子を死に至らしめる事より遥かにましな事であり、
一度も苦悩をこぼさず、側で棄の成長を見守っていったのだ。
「おぬしは高貴な方の息子である。それ相応の振る舞いと民の心を聞きなさい。」
弾正が何度も何度も説いていた言葉である。
娘の献身的で素直な所が似たのか、弾正の言葉が届いたのか、はたまたその両方か、
棄はその通りに育って行った。
そうして棄が10歳になる頃、、、
見附にいた五郎太夫から、義家様が小夜の中山にて駐屯中と連絡があった。
弾正はこれが期と、捨てを連れて義家に会う決断をした。
