2016年09月27日09:54
<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第二章vol.2【二岐二俣また明日】≫
カテゴリー │歴史が動いてヒストリ庵
※これはあまりにもフィクションです
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です
かの二俣という地を語る前にエンシューというものを知っておく必要がある。
遠州(エンシュー)とは遠江(とおとうみ)の事を指す。
東は大井川、西は浜名湖あたりまでがそう呼ばれていた。
古くは遠淡海(とほつあはうみ)という。
都があった近隣には琵琶湖があり、このエンシューには浜名湖がある。
都に近い海だから近淡海(ちかあはうみ)近江(おうみ)でしょ
だから遠い所にある海んとこは!という事でエンシューは生まれた。
単純明快である。昔は多々単純明快なのである。
故に歴史を紐解くと数珠の連鎖のように駆け巡るので面白いのである。
話を戻して、
かの地二俣はその名の通り岐路の時代がいくつもあった。
それは歴史の奥深く小さなカケラかも知れないが
歴史が覆っていたかもしれない重要な事がいくつもあるのである。
その歴史をたどるためにはまずこの二俣から離れ
エンシューの南に舞台を移し、横地(よこち)という名を語らなければなるまい。
現在の菊川の横地という地に、横地氏という者達がいた。
今川や天野氏が1200年代 徳川発祥の松平は1400年代なのに対し
横地氏は井伊氏と同じ1000年代から続く名家であり、その歴史は450年続く。
時は1051年、皆が知っている源頼朝のひぃひぃひぃじいちゃんに源 義家という武将がいた。
その頃は阿部氏という者が奥州(岩手県あたり)でワチャワチャしていたので
義家はお父さんの頼義と共に阿部氏をアベシさせるべく遠州の路を進軍していた。
しかし、先の大雨で太田川が氾濫し義家一行は見附への駐留を余儀なくされた。
「我ら源、陸奥守並びに鎮守府将軍相成って逆賊奥州阿部氏を討伐するために進軍中である。
されど行く手の川が氾濫しており、すまぬがこの地に駐留願いたい。」
見附にいた者達は突然の訪問者達に慌てふためいた。
エライコッチャナンノコッチャワイワイワイワイ
そんな慌てふためく者を横目にしばし冷静な男がいる。
相良なのか工藤なのか今となっては分からないが
藤原家が伊豆に所領を拝領した時からの家柄なようで
現在の森や掛川あたりに土着した豪族だった。
そして”二俣五郎 太夫”と名乗る者もその傍らにいたという。

※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です
かの二俣という地を語る前にエンシューというものを知っておく必要がある。
遠州(エンシュー)とは遠江(とおとうみ)の事を指す。
東は大井川、西は浜名湖あたりまでがそう呼ばれていた。
古くは遠淡海(とほつあはうみ)という。
都があった近隣には琵琶湖があり、このエンシューには浜名湖がある。
都に近い海だから近淡海(ちかあはうみ)近江(おうみ)でしょ
だから遠い所にある海んとこは!という事でエンシューは生まれた。
単純明快である。昔は多々単純明快なのである。
故に歴史を紐解くと数珠の連鎖のように駆け巡るので面白いのである。
話を戻して、
かの地二俣はその名の通り岐路の時代がいくつもあった。
それは歴史の奥深く小さなカケラかも知れないが
歴史が覆っていたかもしれない重要な事がいくつもあるのである。
その歴史をたどるためにはまずこの二俣から離れ
エンシューの南に舞台を移し、横地(よこち)という名を語らなければなるまい。
現在の菊川の横地という地に、横地氏という者達がいた。
今川や天野氏が1200年代 徳川発祥の松平は1400年代なのに対し
横地氏は井伊氏と同じ1000年代から続く名家であり、その歴史は450年続く。
時は1051年、皆が知っている源頼朝のひぃひぃひぃじいちゃんに源 義家という武将がいた。
その頃は阿部氏という者が奥州(岩手県あたり)でワチャワチャしていたので
義家はお父さんの頼義と共に阿部氏をアベシさせるべく遠州の路を進軍していた。
しかし、先の大雨で太田川が氾濫し義家一行は見附への駐留を余儀なくされた。
「我ら源、陸奥守並びに鎮守府将軍相成って逆賊奥州阿部氏を討伐するために進軍中である。
されど行く手の川が氾濫しており、すまぬがこの地に駐留願いたい。」
見附にいた者達は突然の訪問者達に慌てふためいた。
エライコッチャナンノコッチャワイワイワイワイ
そんな慌てふためく者を横目にしばし冷静な男がいる。
相良なのか工藤なのか今となっては分からないが
藤原家が伊豆に所領を拝領した時からの家柄なようで
現在の森や掛川あたりに土着した豪族だった。
そして”二俣五郎 太夫”と名乗る者もその傍らにいたという。
