「この米倉(こめぐら)の地に骨をうずめるか。。。。。」
この諦めに似た穏やかさを醸し出す人物。
以前は二俣近江守昌長(ふたまたおうみのかみまさなが)と称された人物。
二俣氏の中で1つ、その名が表舞台に顔を覗かせた人物であるが、
今は訳あって遠江国一宮にほど近い米倉の地に居を構えている。
その昌長(まさなが)が、家の軒先で雨のしたたる音を聞きながらそっと目を閉じる。
(あの時もこの様な雨であったか。。。)
彼は雨音と共に、昔の想い出に浸っている様だ。
『あの今川の輩を許してはならぬ!』
『我が二俣の手で、横地家を再建するのじゃ!分かったか昌長よ!』
昌長(まさなが)は子供の頃から、今川がどれだけ卑劣かそして、横地家がどれだけ
この地に愛されたかを父から聞かされ続けてきた。
横地城が陥落する中、朽ち果てても助太刀するべきだったと父は死ぬ間際まで後悔していた。
(それが今や、今川の配下であるか。。。数奇な運命よのぉ。近くて遠く、、、二俣の地が懐かしい。)
遠くに目やる昌長(まさなが)の前を急に一筋のつむじ風が吹いた。
それと共に『横地家の再興!お主に託したぞ!!!』と言う、死に際に父が発した言葉が重なった。
静かなる彼の背中はその無念さを大いに語っていた。
ふと彼の耳に幻聴なのか、陣触れ(じんぶれ)の太鼓とほら貝、兵士の掛け声が遠くの方で聞こえた。
それは40年以上前の話。
突如今川方、伊勢盛時(いせもりとき)以後、北条早雲 (ほうじょうそううん)が
エンシューの侵攻を再び始めたのだ。
あの、横地(よこち)・勝間田(かつまた)と今川義忠(いまがわよしただ)の一件で
この30年ほどは穏やかなエンシューの地であったが、後戻りするかのように戦乱の地へと
変貌する様であった。
しかしながら、これは歴史の流れの必然だったのかもしれない。
事、その前から兆しがあった守護職の求心力が如実に低下していた事もあり。
隣国三河では、松平家が守護職一色家を抑えて三河の中心をほぼ治めるまでになっていた。
今川勢のエンシュー侵攻を結果的に退けた守護職斯波家(しば)も、越前・尾張・遠江の
守護職を兼任する大大名であったので、次に騒乱が起きる越前(えちぜん・今の福井県あたり)
の正常化に心血を注がなくてはならなかった。
いつもそこには居ないのに、ふと顔を出したと思ったら小言と威厳を振りかざすばかり。
守護職の代理として土着した武家は力を蓄え反旗を翻したというわけだが、斯波家はそれが
甚だしく反感を生んだ。
それでもエンシューはまだおとなしい方で、彼らは斯波家の意向に従う者が多かったのだ。
再びエンシュー侵攻を始めた今川にも多少なりとも波風はある。
龍王丸(りゅうおうまる)が成人するまでの今川家棟梁だったはずの小鹿 範満(おしか のりみつ)が
その後もその座にとどまっていた。
それに困り果てた龍王丸(りゅうおうまる)らは、将軍付きであった北条早雲 (ほうじょうそううん)
に助けを求める。
その後は電光石火の如く、早雲はすかさず京からスルガへ下向し小鹿 範満(おしか のりみつ)を
うち滅ぼし、龍王丸(りゅうおうまる)をスルガ館へ入城させた。
有無を言わせぬその行動に、反対勢力も口出しは出来ず
晴れて元服した龍王丸(りゅうおうまる)は、今川氏親(いまがわうじちか)と名乗った。
これを機に、早雲は興国寺城(こうこくじじょう:現沼津)に居を構え関東を見据え、
氏親は悲願のエンシュー侵攻を見据える事になるのであった。