<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第六章【エンシュー今川焼】vol.5

ケヴィン

2018年02月09日 17:16

スルガの今川家臣達は堀越貞延(ほりこし さだのぶ)の呼びかけで、
エンシュー遠征の支度にとりかかった。
堀越の兄弟である瀬名 一秀(せな かずひで)は勿論、後々エンシューに大きく影響を与える
松井氏や朝比奈氏もそこに参じた。
なかなか大掛かりな遠征であり、今川義忠(いまがわよしただ)がどれだけエンシューを
奪還したいかを体現しているかのようであった。
「この遠征は、エンシューに巣くう逆賊を排す戦いである。
これは管領細川様より直々の命であるゆえ実は我らにあり。
皆おおいに働きをせよ。
向かうは悪の棟梁斯波家をエンシューから追い出す事のみ。」
今川義忠(いまがわよしただ)は、予告通り東海道を西上し見附(府中)へ向かった。
途中、朝比奈 泰煕(あさひな やすひろ)に後詰として懸川に砦を築かせる事を命じた。
これが後の掛川城となるがそれはまだ後のお話。
府中に迫るその道中で、義忠は”管領家細川勝元の直々の命”を錦の御旗に掲げ、各豪族の呼応を狙った。
この呼びかけに手を挙げたのは、久能、天方、天野といったエンシュー北寄りの者達である。
横地や勝間田、井伊等はそれには答えなかった。
ゆえに今は早急に遠州の中心、府中を抑えて自分達が正規の軍であることを国内に知らしめる必要がある。
府中に進軍した今川義忠は堀越貞延に築城を命じる。
”見付端城”(みつけはじょう)
見附には大きな丘があり、その上に古の者が眠る墓がある。
兜の形に似ている事からその場所をかぶと塚と呼ばれる事になったが、
その丘を丁度東に降りて今之浦川の畔に見付端城がある。
小さくこじんまりとした館と堀があるだけの城。
だが今川家にとって、堀越家にとって、ここよりも最適な再出発の場所は無かった。
この地は、今川家復興の祖と言わしめた今川 範国(いまがわ のりくに)の開拓した地であり
堀越の祖でもある、エンシュー今川。今川了俊(いまがわりょうしゅん)の居した地でもあるのだ。
貞延はまた眼がしらを熱くさせた。
もう二度と、何人たりとも、この地に足を踏み入れる事が無いよう強固な城を作ろう。
そう貞延は心に誓った。
拠点が強固になると、それを聞きつけ人々が群がる。
大小の様々な豪族や村の長(おさ)達が今川に賛同しようと集まってきた。
これは、西軍の総大将山名宗全(やまなそうぜん)が死去したことが少なからず関係している。
山名宗全が生前中にも東軍が有利ではあったが、死去した事によりさらにその優位は東軍になびいた。
無論その風は諸国にも影響を及ぼしたと言うわけだ。
今川忠義は所要の為スルガに戻っていたが、見附にいた堀越貞延はこれが好機とばかりに
曳馬(浜松)まで出張り、斯波家をけん制し追い出さんと試みた。
そんな折、時代を動かす物事が起きる。
東軍総大将、細川勝元が死んだ。
その事を堀越貞延はまだ知らない。



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