<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第五章vol.19【エンシュート!スルガ】

ケヴィン

2017年12月22日 10:12

今川了俊無き後。
了俊の存命中からそうであったが、スルガ宗家の甥今川泰範が無能であったかしらないが
脈々と受け継がれたエンシュー守護の座を斯波家にうばわれてしまい、後80年ほどは
斯波家に独占されてしまう。
これにより両家は積年恨みつらみを重ねていき、斯波家はさらなるスルガへ、今川はエンシュー奪還と
三河・尾張の進出を展望するようになる。これが後の桶狭間に続いていく事になるのだが、それはもっと後のお話。
了俊初代とするエンシュー今川家はと言うと、
残していった「今川状」を胸に抱き、孫の今川 貞相(いまがわ さだすけ)が
よく言いつけを守り、それを今川 仲秋(いまがわ なかあき)がよく補佐をした。
混沌とした不安の流れる室町と言う時代において、エンシューの今川領は
ある種のオアシス的モデルケースとなりこの東海地方において最大の勢力に上り詰め
一時代を築く事に成功する。
エンシュー今川家はその事を鼻にかける事はせず、家来や農民たちに還元していった。
了俊の九州で行いたかった事がここで華開いたかのようである。
一節には、このエンシュー全土をよりよく統治するために浜松城の前身である。
曳馬城を築城したのはこの今川 貞相(いまがわ さだすけ)ではないかと言われている。
エンシューの皆は笑顔にあふれていた。全ての地で活気がみなぎっていた。
ただ、今川了俊によって九州に駆り出された外様の武家衆達に少しの煙たさを残しつつ。
想いというものは、残念ながら薄れゆくものである。
了俊の死をまじかに看取った貞相や仲秋その想いをダイレクトに受けていたので
何をやりたいかをよく理解していた。
故にその基盤の上に繁栄が築けたのだが、貞相の子である今川 範将(いまがわ のりまさ)
の代になるとその規範は薄れてゆく。
さらに言うなれば、完全正義成るクロムウェル思想の「今川状」は息苦しくも感じた。
こういう次期は連鎖的に負という物が重なるもので、、、、斯波家である。
斯波家は守護であるにも関わらず、エンシュー今川のやり方に農民が多数指示していたため身動きが取れなかった。
いままでも横やりをつついてきた斯波家ではあるが、今川の排除というまでには至らなかった。
しかし、今川 範将の代での綻びを見るや、大攻勢を仕掛けてきたのだ。
彼らをよく思わない武家衆達をエンシュー守護の権力のもと取り囲みにかかった。
それは、以前九州に駆り出されて散々な思いをした者達。
井伊家や狩野家、横地や勝間田、それに二俣家もそうである。
それに焦った今川 範将(いまがわ のりまさ)は何を思ったか指示ある農民を巻き込み一揆を画策した。
この事により室町殿(足利 義政)の知る所となり、物事は国レベルの問題に発展してしまった。
そしてその戦の末。。。
「・・・・・あぁ、かなわなんだか。」  
「父上!」
「この堀越の祖、範国様にあやかり我が名を範将としたが、ついに叶わなんだ。」
「父上!死すときではございまぬ。気を確かに!」
「六郎よ。もしもの時は宗家(そうけ)にお力を借りよ。」 
今まさに死す間際なこの男、堀越治部少輔範将(ほりこし じぶしょうのすけ のりくに)という。
元々は今川家である。
駿河今川の庶家であり遠江今川と言われていたのだが宗家(そうけ)の恩賞「天下一苗字」の煽りをうけ
居地堀越(袋井地方)の地名に姓を改めていた。
その範将が寂し気な眼差しでぼそっとつぶやく。
「我がエンシュー今川、堀越家、、、どこでどう、、、道を間違えたのかのぉ。。。
エンシューとスルガはイマガワの今が我が春、、、、か。。。」
「父上ぇーーーーーー!」
こうして、エンシュー今川改め堀越は所領を没収されてしまう。
後に子の貞延( さだのぶ)に返されるが、一時期の繁栄の陰もない所領であった。
さらに今川はこの件でエンシューの統治権を完全に斯波家に奪われる事となり
今川×斯波の権力争いの中心はエンシューが渦中となっていくのであった。

第五章【エンシュート!スルガ】終了です。
長い間ありがとうございました。

次回(2018/1/12)からは
<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第六章【エンシュー今川焼】
をお送りいたします。

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