<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第五章vol.5【エンシュート!スルガ】

ケヴィン

2017年08月04日 11:28

九州という名は、いくつか説があるが
筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国
この9国の総称とも言われている。
了俊の故郷、スルガよりデカい。
スルガとエンシューを合わせても足りない。そこを平定しなければならないのだ。
思えば、あの頼朝公の弟君、エンシュー豊田のほとりに住まいし源範頼公もまた九州征伐を命じられた。
あの豊臣秀吉も一時エンシューに住まい、後に九州征伐をしている。
九州とエンシューは何か因縁じみたものがあったりはしないだろうかと想像を掻き立てられてしまう。
とは言っても今は昔、了俊は今まさに九州に乗り込もうと決断をしていた。
一方九州側はと言うと、後醍醐天皇の子・懐良親王が征西大将軍になってから30有余年。
肥後の菊池氏の力添えもあり九州の北朝方をねじ伏せ、幕府から差し向けられた九州探題の刺客を
3度も撃破しその勢力を拡大してきた。
そしてまた九州探題の刺客として、今川何某とやらが来るらしい。
彼らは左うちわで今川勢を待ちわびていた。
鎌倉幕府、陰の立役者北条家は武家の棟梁という立場に胡坐をかいて滅びていった。
室町幕府、足利政権の軍事参謀的役割であった高家、あの井伊の弱体化を招いた張本人の高家。
彼らも権力の欲に目がくらみ、悲惨な最期を遂げていった。
双方おごりから来る必然であったが、いみじくも懐良親王と菊池家は同じ轍を踏むかの様である。
今川了俊の戦い方は皆とは一線を画す。
皆一応にまずは敵方御前に布陣してそこからどうするか考える。
ゲリラ戦も多用化してきた時代だがまだまだ源平合戦の名残がそこに有る。
前述したとおり彼はまず、情報収集を行ってから軍議を経て布陣をするのだ。
敵方の勢力、現在の情勢とそこに至った経緯、複雑に絡み合う人間関係、事細かくである。
それを総合して、どこが突き処かどうすれば崩れるのかを想定して動くのである。
それは次の時代に軍師と言わしめた姿、その先駆けではないかと思われた。
南朝方の懐良親王と菊池氏は筑前の大宰府を抑え、各重要拠点を菊池氏配下が陣立てしているといった感じだ。
ただ難題が山積みであり、各拠点は連携しておらず個々で守っておりカバーするにはあまりにも広大な土地を
見なければならなかった。そしてこの南朝の圧力に反発する者も少なくはなかった。
了俊は、九州で北朝の存在を示すことが出来れば必ずうねりとなると確信した。
まずは嫡男義範を大友一族の先導で豊後に、弟仲秋を肥前からそれぞれ上陸させその地で味方を増やし
北朝の基盤となる拠点を確保していった。
翌年になり大内氏の先導のもと了俊本隊も豊前に進行を始めた。
これで、筑前の大宰府を三方向から攻めたてる事が出来る様になった。
ただ、逃げ道かのように筑後は残し。



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