未だ戦火の燻る九州平定の任務に就く事になった今川了俊。
彼はこの時44歳であった。
男としては一番油の乗っている時期であり、前線で一番指揮をとれる良い時期でもある。
が、この九州平定の任は死出の旅になるかもしれない、そう考えていた。
九州探題が発足してから了俊で4代目になるが、すでにそこは何も用を足さない
ただそこに有るだけの機関になり下がっているのだ。
四方八方敵だらけの中に乗り込んでいく、これはもう体のいい役払いである。
成功すれば儲けもの、失敗したら詰め腹を切られるだけの話。
それでも彼は何か策があるかのように少し笑みをこぼし九州へ向かうのだ。
今川了俊はエンシューの国人武士に下知をする。
横地、勝間田、狩野、井伊、天野、浜名、二俣、全ての者達にだ。
「親族1名以上はこの遠征に参加するべし、馳せ参じぬ家は領地没収、参じる家は領地安堵。」
それは脅迫にもとれる文言であった。
しかし、参じれば領地安堵と言うのだから皆は従うほかない。
これには、彼の思惑が入っていた。
自分がエンシューに居ない時の反乱を防ぐ名目である。遠征参加者は所謂人質である。
さらに、この遠征に関しては今川は費用を負担しない。国人の力を削ぐ事も念頭に置いている。
さらに言うなら、領地安堵と言っておいて国人達の今川への忠誠を上げたい思惑もある。
了俊は、この九州平定の事ではなく未来のエンシューを先見していたのである。
この遠征に了俊の弟である氏兼、仲秋達も参加していた。かなりの大舞台だ。
彼らは一今川了俊度京に入り、幕府より下知を受け九州に向かう。
今川了俊という男は、この京都から下関までの道のりを「道ゆきぶり」紀行文として後世に残している。
はたから見れば遠足気分そのものであるが、彼はエンシューより遠く離れるこの地での人脈を記して
今後の糧にしたように著者には写る。
彼は、安芸(現・広島)についてすぐには九州入りをしなかった。そこにずっととどまっていたのである。
そこで何をしていたかと言えば、近辺と九州の情報収集と味方勢力の拡大であった。
彼の話し方は引き寄せるものがあり、戦国に飛翔する毛利や吉川などの国人が了俊の後押しを約束してくれた。
その中でも大内家との対面は、今後の今川家や了俊に多大の影響を及ぼしていく。
こうして味方を着実に増やしていく了俊であったが、武功派にはすこぶる人気が無かった。
寄ってくるものはほとんどが知識人である。
武功派は人情で動くが、彼は理論で動いた。
その話を理解する者はうんうんと頷き賛同するが、意味が解らない武功派はその話し方すら鼻についた。
その武功派たちも束ね今まさに安芸の地に居るのだから、それだけでも大したものなのだが
目的のためには手段を択ばない方法に、エンシュー国人皆の不満が溜まっていた事は確かである。
ある日の評定の場で、今川 了俊はいつもの通り口元をニヤリとさせた。
ついに九州に乗り込む時がきた。