<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第四章vol.9【東西南ボクイイね!】

ケヴィン

2017年05月19日 09:12

※これはあまりにもフィクションです   
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。
 
急な伝令に戸惑いながら、井伊行直は夜のうちに大平城を出て三嶽城についた。
そこにはひどく狼狽した宗良親王がいたのだが、書状を読むなり行直もまた時が止まった様に
天を仰ぐばかりであった。
その書状には、後醍醐天皇は朝敵足利尊氏率いる北朝打倒と京都の奪還を
最後まで望んでおられたと添えられていた。
践祚(せんそ)したのは、宗良親王の弟にあたる義良親王だという事だ。
彼は宗良親王と共に伊勢より進軍し散り散りになった後、運よく伊勢に戻る事が出来たようで
それからは吉野に留まっていた。
ともかくエンシューで奮起奮闘していた者たちにとって、とてつもなく重要な箍(たが)が外れたのである。
そもそも戦略として後醍醐天皇からの増援を望んでの籠城であったので、崩御した事により根幹が崩れ、
井伊谷ふくめた西エンシューは陸の孤島と化したのである。
後日談になるが、践祚(せんそ)した義良親王は後村上天皇として即位し、後醍醐天皇の遺志を継ぐものだが
挟撃作戦の失敗が脳裏に焼き付いて離れないのか、近国の寺社や武士の連携強化に努め政策転換を行っている。
それは、今起きているエンシューでの戦いに関与しないという事を意味していた。
現に援軍は来なかった。
崩御の一報は、いや、こういう一報だからこそ周辺で守る支城にも一気に広まる事になる。
「どうしたものか、これではわしら無駄死にだわ。」
「わしゃ死にたくないでよ。」
不安は不安を増幅させる、皆一応に指揮が落ちていく。
そんな矢先、北朝の兵が各支城に攻め入ったのである。
戦の中の最大の敵は「恐怖」である。南朝の兵は刀を交える前から呑みこまれていた。
こうなってはもう敗走する事は必須である。
皆秩序なく目の前の恐怖から逃れたい一心で、恥も外聞もかなぐり捨て走った。
「井伊の兵は逃げ腰だけは強いのぉ、はははははは。」
北朝の兵から笑い声が出るほど、その戦いぶりは歴然としていた。
こうして千頭峯城、奥山城、井伊谷城の支城ことごとくが短期間で敵の手に落ちた。
ただし井伊谷城に関しては、高師泰らの兵によって陥落したのではない。
彼らが向かった時にはすでに砦から煙が上がっていたのである。
内入してみると、足利二つ引両(足利一門の家紋)の流れ旗に数百の兵、それと端麗な青年が佇んでいた。
流れ旗から察するに敵ではないようだが尊氏直属の中では見た事が無い。
「ぬしは何者じゃ。」と北朝の兵が訪ねると、
「我、今川家臣松井八郎助宗(まついはちろうすけむね)と申す。高氏(こうし)殿には昨年関東進軍の折り
よしなにしてもらった恩にて助太刀に参った次第。」と名乗り出た。
この男、この後今川家の重鎮としてその地位を確立していく事になり、その末裔が二俣の地と大きな関りを
持つ事になるのだがそれはまだ後のお話。
話を戻し、井伊が守る支城は大平城だけとなり三嶽の山はほぼ裸同然になってしまった。
支城から三嶽へ逃げ戻った兵の数は、井伊庶家の奥山勢とわずかな兵だけになっていた。
大半は負け戦を悟りどこぞへ逃げ隠れてしまったようだ。
当初攻勢にでていた井伊家含む南朝勢であったが、ものの4か月でそれは過去の話となった。
ただ残った者は覚悟ある者、宗良親王を守り井伊家ここにありと名をあげんと息まいてもいるのであった。

践祚:天皇が攘夷または崩御した際、天皇の位を受け継ぐ事。
   公に天皇の座を知らしめることを即位。
   もともとは同じ意味でとらえられていた。
   婚約と結婚に似た感じだろうか。



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