※これはあまりにもフィクションです
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。
<お詫び>
前2話ほど行直を道直と表記しておりました。間違いです。
×井伊 道直〇井伊 行直
すみませぬm_ _m
高師泰(こうのもろやす)率いる北朝軍は、一気に大平城手前にある灰ノ木川まで歩を進めた。
昔この辺りにはハイノキがいくつもなっており、春になれば立派な白い花を咲かせたことから
それに流れる川を灰ノ木川と称したのだとか。
しかし7月の暑い日々へ突入したこの時期、高師泰(こうのもろやす)達が見たものは全く別のものであった。
見渡す事出来る限りの尾根それぞれに、”井”の字の流れ旗がはたはたと棚引いていた。
”井”の字は、まさしく井伊の紋である。
また改修した大平城は、本曲輪(くるわ)郡とその下に連座する出曲輪(くるわ)郡の一城別郭の形になっていた。
簡単にいえば、お城を二個一にした感じであろうか。この時期の城とすればデカい部類だ。
そして本曲輪郡は下にいる相手を飲み込もうと両手を広げている様にも見える。
それを見た高師泰(こうのもろやす)達もさすがに肝が冷えた。
それでも部下たちの前で大見得を切ってしまった手前、進まざるをえない。
「井伊の兵など弓も射れぬ雑兵どもじゃ、一気呵成につき進め!」内心と裏腹に声を張り上げる。
その号令を期に、彼らの兵は灰ノ木川を渡りまずは出曲輪郡を強襲した。
律儀に大軍をもって正面から立ち向かおうというのである。
ただ兵たちがその側まで行って分かったことがある。結構な急斜面であるという事。
先導した兵はその壁に阻まれ立ち往生するが、後ろからの兵でどんどん圧迫される。
後退しようにも背には灰ノ木川があるので、そうそううまくは出来ない。
それならばと、北朝の兵たちは左右に広がりを見せた。一見出曲輪を半分取り囲んだ状態である。
実は大平城の山々は高くはない。本曲輪で100mmぐらいの高さしかない。
何故先に三嶽城が攻略されなかったかと言えば、三嶽は400mmあるからだ。
石垣や漆喰壁、鉄砲の伝来、それらが無いこの時代に山の高さは城を作るうえでの最重要事項なのである。
ただ、大平城はその山の高さという弱点を利点に変えた城だった。
敵はまず出曲輪郡を攻め立てたいというのが心情であり、それに群がっている所を本曲輪郡とで挟撃できる力を持っていた。
もちろん今回もその策がぴったりとはまった。
崖下にいる敵たちは数時間のうちに投石と弓とでその屍を積み上げる事しかできない。
北朝方の兵たちはたまらず陣形を崩し敗走するしかできぬ有様である。
高師泰はそれを一括し、灰ノ木川の南で陣形の立て直しを図った。
「くぅ、井伊のこわっぱがやってくれるわ。」
煮えたぎる憎悪の中でも、何も出来ず睨み合いの状況が数日間続いた。
出鼻を挫かれる子とはこういう事か、高師泰に苦いあの頃がよみがえる。楠木正成や新田義貞に虐げられたあの頃が。
高師泰は息を深く吸い込んだ。一度ありても二度は無し。彼は冷静さを取り戻す。
これが出来る事こそ彼の真骨頂なのかもしれない。
彼は先に三嶽を落とすことを決めた。だが挟撃も警戒しなければいけなかったので
高師泰自身はここに留まり大平ににらみを利かせ、高師冬達を主力とし支城の千頭峯城・奥山城・井伊谷城攻略に向かわせた。
一方、井伊行直達は少なからず犠牲者が出たものの北朝軍を黙らせたという勝利に近い歓喜で盛り上がっていた。
もしかしたら、このまま北朝軍をねじ伏せる事も可能であるかもと行直は考えたかもしれない。
だが井伊にとってみれば、宗良親王が遠州灘に打ち付けられたあの日から歯車がかみ合わず、それ以降もかみ合う事は無かったのである。
その最大たる要因が御嶽にいる宗良親王のもとに届けられた。
必死の思いで届けられた密書。
宗良親王はそれを読み終わると「井伊介を大平から呼び戻せ!」震える声でそう叫んだ。
セミの声がけたたましいまだ暑き8月の空。
後醍醐天皇が奈良の吉野で崩御した。
※曲輪(くるわ):盛土や削地で平坦にした場所を囲って防御を高めた箇所で
一般的にその中に兵が籠り櫓(やぐら)などを建て敵を迎え撃つ。
江戸時代になると、本丸、二の丸、三の丸という呼称されるようになる。