<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第四章vol.3【東西南ボクイイね!】

ケヴィン

2017年03月31日 09:06

※これはあまりにもフィクションです   
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。 
三種の神器
八咫鏡(やたのかがみ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)草薙剣(くさなぎのつるぎ)がそれである。
エンシューの衆らに馴染みが強いのは、草薙剣であろう。
隣の駿河にてヤマトタケルが火責めにあった時使用した剣が草薙剣であり、それにちなみ草薙という地があり
焼けた土地を焼津と称したのである。
ともかく、この三種の神器が無くては一部の例外はあるものの基本的に天皇の地位を確立できない事となっていた。
はたして尊氏が擁立した光明天皇がもつ三種の神器が本物なのか、それとも後醍醐天皇がもつ三種の神器が本物なのか、
今となっては定かではない。そもそも現天皇陛下も拝謁した事のないこの三種の神器の有無でさえ不確かなのだ。
政(まつりごと)の中心でどちらが正統なる天皇の系譜か争っている頃、地方武士達は否応なくどちらに着くか迫られた。
それは隣村との対立を生んだだけでなく、家族や親類同士での争いにまで発展していった。
利によって動くもの、義によって動くもの、流れに沿うもの、思考が入交じり誰が敵か味方か、見えない不安と未来に
恐れつつ前に進まねばならなかったのである。
そういった状況の中で、エンシューはどうだったのだろうか。
この時エンシューでの勢力を誇っていたのは、横地・勝間田、井伊・奥山、天野氏であろう。
横地・勝間田氏達は鎌倉幕府討伐の際、尊氏配下で動いていた。そのままの流れで彼らは北朝方に味方をする。
無論同族に近い二俣の地も同じである。
井伊・奥山氏に至っては彼らはいつの時代も天子様の親衛であり、反旗を翻した尊氏方は許すまじき逆賊で南朝方に
味方をする。ただ、横地と井伊は鎌倉時代以前からの付き合いであり親族が入り混じっていた。
それ故、内部で意志相違が起き双方多少の離反が出たものと思われる。
二俣の北に領する天野氏は鎌倉幕府討伐の際は楠木正成についていた。楠木正成は北朝側であるので天野氏は
そちら側に着くと思いきや、利によって尊氏側の南朝派もおり一族は大いに二分した。
そして今後エンシューに多大な影響を及ぼす武家が登場する。
駿河に居を構える今川家。
この今川という家は吉良家の分家である。その吉良家は三河に居を構える足利家の分家である。
鎌倉幕府後期、エンシューの引馬に移り住み駿河に拝領地を与えられ今に至る。
これより後世にこんな言葉が残る。
「足利が倒れれば、吉良家が。吉良家が倒れれば、今川が。」
それだけ巨大な力を得る事になる今川であるが、今はまだ駿河の国でそれを虎視眈々狙っていた。
そしてもう一家、エンシューの地から山をいくつも越えた三河松平郷という場所で人新たな武家が誕生する。
「世良田」。そう呼ばれた小さな小さな武家はやがて野に放たれ松平を称し、やがて徳川というもっとも巨大な武家に成長
するのだが、それはもっと先の話である。
ともかく今は全国津津浦浦、武家が南朝方と北朝方に分かれ死闘を広げているのである。
話はすこし行き、南北朝分裂から早二年が過ぎた頃。
最初勢いは南朝側にあったのだが徐々にじり貧となり北朝側に押され始めた頃の事。
後醍醐天皇は形勢逆転を図るため関東の武家達に決起を促そうと、息子の宗良親王らの派遣を決定した。
伊勢から船で東国に向かおうという計画である。
意気揚々、希望を胸に抱いて出航した宗良親王一行であったが、人の命運とは時に非常なもので遠州灘沖合で大しけに会い
皆散り散りになってしまった。
宗良親王が乗った船は必至な思いで岸を目指し、命一つの状態でようやく漂着できた有様であった。
多くの犠牲者と武具や金目の物もかなぐり捨てようやく生きながらえた命である。
震える声で宗良親王は家臣に問う。
「予は今いずこにいる。」
宗良親王の航海士と思われる人物が答える。
「遠州の白羽だと思われまする。」
どうやら宗良親王達は現浜松砂丘の西、白羽という地に流れ着いたようだ。
空は厚い雲が覆い天から大粒の雨が降り注いでいる。
月の光は遮られ全てが黒鉛に縁取られていた。
ああ、この雨は当分やみそうもない。投げ出された家臣たちの涙とも思える雨が。



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