<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第三章vol.9【二俣二間譚】

ケヴィン

2017年03月10日 09:51

※これはあまりにもフィクションです
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。
砦の場所は笹岡の地に決定された。
岡というのだから、山裾が平らになっていて他の平地よりも一段高い所である。
民達は総出で木々を倒し平地にして、柵やら櫓やら倉庫やらを建てた。
櫓からはその二俣の地が一望できる事となった。
もちろんこれに伴い二俣川への堤も作られていく。
この時期の堤は完全とは言い難くその後もこの地は水害に見舞われるが、それでも被害が少なくなった。
その証拠に、砦の下には主要な道路が出来しばしば市が開かれていたようだ。
二俣の地に砦が出来た。この一報は瞬く間に周辺の地域へ広る事になる。
「あの小山七郎朝光が二俣の地を訪れ、砦を築いた。」
前にも記した通り彼は鎌倉幕府の中で若手の急先鋒であり、その名は各地に轟いていた。
その小山七郎朝光が築いた砦ともなれば、それだけで抑止力となった事だろう。
そういう彼はと言えば、鎌倉の中枢を担っていて忙しい身であり二俣には数日しか滞在を許されなかった。
されど、民達と密な時間を過ごしたらしく、帰り際に民が
「小山様の登ったあの山、小山様のその烏帽子に似とるで、烏帽子山とここら辺の衆らが言っとるわ。」
と話したとか、話していないとか。
またこれより先の話だが、朝光が居した場所を、後名とする「結城」にちなみ「ゆきの殿」と呼んだという。
彼が二俣の地に来た事は良き風を運んだと感じる一面である。
さて、この二俣に出来た砦にも関連する事なのだが、鎌倉幕府という武家政権には領地が必要である。
御恩に報いた奉公にはそれ相応の対価を支払わなければならない。土地である。
当初は平家一門またはそれに組した者の土地を没収し分け与えればよかったのだが、ジリ貧となった。
幕府が次に目を付けたのが国有地である、それを切り売りし武士達の心をつなぎとめようとした。
その様な状況を憤慨して見ている者達がいた。都に住まう朝廷(公家)方の面々である。
いままで甘い蜜を吸っていた者達にとって、その後ろ盾を無くされるというのは言語道断の話で
天皇も含め朝廷側は次第に幕府との対立を深めていく。
反乱や、倒幕の動き、外部からのワチャワチャ、鎌倉幕府実権の移行、
そういう事を乗り越えながらも鎌倉の武家政権は力を蓄えていった。
ただ、一人の飽くなき野望により、これまで関東や都周辺の境地的な争いだったものが、
箍が外れ全国各地大きく揺れ動く事態と移行していく。
それが後醍醐天皇と南北朝時代の始まりなのだ。
この混沌とした時代の幕開けに、二俣の地も否応なし巻き込まれて行く。
思えば、砦が出来150年の月日を重ねた時の事。
朝光が懸念していた事が現実になった。

という事で、第三章【二俣二間譚】いかがでしたでしょうか?
次回からは<歴史が動いてヒストリ庵~エンシューの衆ら~3> 第四章【東西南ボクイイね!】
をお送りします。

※笹岡古城:現在浜松市天竜区役所(前天竜市役所)が建てられている。
この以前も役所を建てる際も、陶器や矢じりが出土したという。
この地に市役所を建てるという事は、平穏の時代において最高の立地条件
という事が伺える。




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