※これはあまりにもフィクションです
※歴史認証はされておらず、あくまで個人の見解です。
争いというのは、1つの勢力とその反体制によって作られる。
いつの時代も理由は違えど同じなのである。そして勝者が歴史を塗り替えてきた。
今から思えばエンシューの衆らはこの時、勝者側に立っていた。
先の源平間の争いで負けてふさぎ込んでいた分、イケイケGOGOの時代だったと言えよう。
武家のみならず農民たちも活気づいていた。
その要因となる重要人物として安田三郎義定が守護に就いたことがあげられる。
戦国時代と言われる時が目覚める頃、この守護と言うのは名ばかりになっていくが
この初代守護である安田三郎義定は違った。
このエンシューという地に住み、人を愛し、良く良くしてくれたのである。
そしてもう一人、影の、まさしく影の重要人物がいた。
その名を源範頼(みなもとののりより)という。
源氏も数多色々いるけれど、この範頼、頼朝の弟であり義経の兄にあたる人物である。
昔その昔、だだっ広い平野部、今はビュンビュンと車が行きかう場所。
浜松の東部、和田や篠ケ瀬、大蒲といった地には田園が見えぬ向こうまで広がっていた。
そういう所で範頼は生まれ育ったのだ。
しかしなぜそんな片田舎でひっそり暮らしていたのか。
この地より少し東に行った所に池田宿という当時賑やかに栄えた所があった。
平宗盛と熊野(ゆや)の物語が有名なその地であるが、範頼の母はその宿場の遊女であったとされる。
横地の発生もそうであるが、これは父義朝の出来心であり身分が違うという事で不遇の時代を過ごしたのだ。
しかし頼朝の挙兵に呼応して範頼も挙兵することを決断する。
当初戦いの要は、このエンシューや隣の駿河だと思われていたが平家が攻勢には出てこず
おもだった反乱もなかったため、この地より遠き所で戦いは繰り広げられた。
これは安田三郎義定の下でエンシューの武士達が一丸となっていた証であると言える。
そしてその時々、安田三郎義定と範頼は協力して、エンシューの衆らを引き連れ遠征をする。
それを認められてか範頼は、源義仲並びに平家討伐の総代に抜擢されるのである。
この事は大いにエンシューの活気を増大させた。
その下に横地、勝間田、井伊、後の天野、エンシューのそうそうたる猛者が名を連ねていた。
勿論そのわきに二俣の名もいたことであろう。
源義仲や平家討伐というと、一番には義経を連想させる。可憐な戦場での活躍を見ればあたりまえだが、
その後ろに源範頼がいたことは忘れてはならない。
が、困ったことに嘘か誠か彼は優しく大人しいようで残虐無情の心を持ち合わせもした。
一の谷で討ち取った武将の首で蹴鞠をしたり、他人を貶める様な暗躍をしたりと噂が後を絶たなかった。
平家討伐の後、義経が頼朝の了解なく朝廷から官位をもらい対立を深め、逃走の日々を送る訳だが
これをけしかけたのは、範頼だったという噂もある。
その様な状況の中で再び二俣の地はひょいと表に出てくることになるのである。